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2007/04/22

露の五郎「神崎与五郎外伝」

【世紀末亭】4月22日定期アップ

●露の五郎(五郎兵衛)「神崎与五郎外伝」:人情ばなし
播州赤穂、汐入(しおいり)村に一人の少年がいた。齢(よわい)十歳、名は太郎作。早くに両親を亡くし、目の不自由な祖母の面倒を見ながら、魚を釣って村人に商いし健気に暮らしている。その日も河口近くで糸を垂れていると、奉行の若さまが手慰みの釣りにやって来て「釣れぬから場所を替われ」と言う。替わってやるとしばらくして「まだ釣れぬから、また場所を替われ」しまいには釣った魚を全て取り上げられ、ビクを川に流され、竿をへし折られてしまった。竿がなければ明日からの生活もできない「たくさんお持ちの竿の中から一本お恵みください」と手を伸ばしかけたそのとき、若さまが刀を抜いて斬りかかってくる。刹那、揉み合う弾みに奪い取った刀が若さまの胴を真っ二つに……
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug415.htm

●桂雀々「茶漬幽霊」:江戸落語「三年目」
風邪をこじらせ寝込んでいる亭主の枕元で、女房のお咲がさめざめ泣きながら「あんたにもしものことがあったら、わたしはもぉ生きてられしまへん」「何言ぅてんねんお咲、わしが死んだら、また新しぃ婿はんもぉたらえぇやないか」とまぜっかえすと「よぉそんな薄情なこと、わたし二度と亭主てなもんもらうことないわいな」やがて亭主の病気は癒えたものの、看病疲れが出たものか入れ違いにお咲さんが病の床に臥せってしまった。「わたしが死んだら、新しぃ嫁さんもらいなはんねやろなぁ?」お咲さんの心配に「もし、浮世の義理で嫁はんもらうことになったら、夜中に化けて出て新しぃ嫁はん追い出せ」言ってやると安心したものかそのままコロッ。百か日を過ぎた頃、お咲さんの予言どおり亭主は甚兵衛さんの世話で新しい嫁さんをもらうことになり祝言の夜「どっから出るか、いつ出て来るか」と二時、三時、四時、五時、六時、三日、四日、五日、ひと月、ふた月、一年、二年、三年目の夏の昼下がり……
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug168.htm

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わけ言わんと分からんのですけど、こちら「世紀末亭ブログ」は、@ニフティ内に存在していた「関西フォーラム」のミラーサイトでした。上方落語をテキストで紹介している【世紀末亭】へ案内するための玄関、という形になっています。ところが本家のニフティ@フォーラムが先月(2007年3月)31日をもって終了し、船頭をなくした船がさまようように単独、ネットの海に漂いはじめています。

そこで、【世紀末亭】産みの親とも言うべきニフティ・フォーラムからの独立を記念して、「私の上方落語履歴書」「上方落語メモ【世紀末亭】の履歴書」(シアター・フォーラムに掲載したもの)を再掲(改訂保存)させていただきます。

私の上方落語履歴書
おおよそ大阪に生まれた子どもにとって「笑芸」は国語を学ぶことと同等の重さ、意味、機会を与えられている。という話をよくお聞きになることでしょう。その中心となるのが「よしもと」であることは全国的に知れ渡っています。もし知れ渡っていないといけませんのでここで改めて「大阪に生まれた子どもは“笑芸”を国語と同じように学んで大人になる」と覚えてください。

大阪には国語、つまり日本語のほかに「お笑い語」なるものが存在します。例えば街行く人に「おじゃま」と声を掛けると「しまんねやわ」と返り「ごめん」に対しては「くさい」と返ります。ホンマか嘘かは実際に試していただくとして、お笑い語を使用できる状況の中では上記対話はごく自然な流れで出てきます。これは人が言葉を覚えるその最中に、厚かましくもズケズケと「お笑い語」が家庭内に入り込み、溢れているからにほかなりません。

かく言う私も物心ついたときにはすでに「してみてみ、見てみてみ、聞いてみてみ」「何じゃとて?」などなどの言葉を通常会話の中で使用しているガキでした。これは漫才の中から覚えた語彙と思われます。「思われます」とはまたえぇ加減なことですけど、覚えようと意識せずに覚えてしまったのだから仕方がない。

時間はドッと過ぎ去って四十を超えた私に……、それにしてもえらい過ぎ去ったなぁ、まぁ途中は書くほどのこともございませんのでドッと進めます。四十を超えた私にパソコン通信という玩具が与えられました。さる通信会社のさるボードに短文を書き始めたのがきっかけで、ドンドンその面白さにハマっていきます。

ようやく初心者を脱して活動の場をニフティの関西フォーラムに移し、ゴチャゴチャと書き込みを楽しんでいた折も折、その会議室の先輩が「吉本新喜劇に関する一考察」の連載を始められました。これがなかなかしっかりと、そして素晴らしい出来上がりなのです。いっちょ噛みの私としたらもうたまりません、私もやる、私もやる、私も何かやってみたい、何か、何を?

同じテーマを攻めてみたところで、太刀打ちできそうにないのは明らかでしたから、ここはひとつ、まだ手付かずの話題を取り上げて……、と考えたときにふと出来心で浮かんだのが「上方落語」もっと具体的には「テレビ番組・枝雀寄席で演じられた枝雀師匠の上方落語を短くダイジェストしてまとめてみよう」だったのです。さぁ、よぉやっと私と上方落語の接点、歴史が始りました。

その始まりが1996年7月の吉日。今これを記しているのが2002年10月ですから、上方落語を上方落語として認識し、上方落語を聞こうと意識して聞き始めてやっと6年が過ぎたばかり、ということになります(ということは、2007年現在11年目ということです)。も一つ白状してしまいますと、生で噺家さんの高座に接したのは今年(2002年)の6月が最初で、現在までに通った寄席・落語会が7本、噺家さんの数にして22人、どや参ったか(2007年4月現在、通算373席に参加)。

何も「上方落語初心者」を声高に叫ばなくてもよろしいのですけど、先にも申しましたように大阪に生まれた子どもはお笑い語を国語と同じく学んでいます。日本語をしゃべるのと同じように「お笑い言葉」を話します。お笑いは吉本新喜劇だけではありません、松竹新喜劇も漫才も音曲ショーも、そして上方落語も、みな一緒くたに笑芸です。その基本的上方の笑いの土台の上に立つ「上方落語初心者」ということでしょうか。

幸いなことに大阪の「基本的笑いの土台」という土台レベルは全国的な「笑いの土台」に比べてかなり、結構、相当、十分、きわめて高いレベルにありました。そらそうです、国語と同等に学ぶわけですから。ですから、それまでスッと聞き流していた上方落語をジックリ聞くことに何の抵抗もありません。6年後には傍(はた)から見れば立派な「上方落語通」と誤認させるに足る「偽上方落語通」が出来上がりました。と、以上が私の上方落語履歴書です(2002年10月25日)。

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上方落語メモ【世紀末亭】の履歴書
私のページ【世紀末亭】の来歴は大まか次の5段階に区切ることができます。第1段階は「最初の1演目」第2は「桂米朝師も」第3は「まだある」第4は「慣性の法則」第5は「休もうとして休めない」順を追って書き連ねてみます。

なお【世紀末亭】の名の由来は、サイト開設が1998年でいよいよ世紀末が近付いていたことによります。2001年にめでたく新世紀を迎えることができましたが、名を新世紀亭に改めることなく慣れ親しんだまま残しました。

最初の1演目
「私の上方落語履歴書」で触れましたように、サイト制作のきっかけはホンの出来心でした。先輩の真似をしてパソコン通信・ニフティの地域フォーラム会議室に枝雀師の落語を紹介する。それも100行以内のダイジェストとしてです。100行に特に意味はありません。掲載場所が「会議室」ですから、長文注意にならないようにという配慮からです。この作文が今100行をたっぷり超えていますが、そろそろ苦痛になりかけてませんか?

最初の1演目の選択には、確信犯的にシリーズを完成させようという上方落語通なら十分過ぎるぐらい悩むのでしょうけど、何の思い入れ、考えもなく「舟弁慶」を選びました。何度も言いますがふとした出来心です。ソースは昔たまたま録音して、押し入れの奥に乱雑にしまいこんであった「枝雀寄席」のカセットテープです。

気の向いたときにテープを聞き、ざっと粗筋をナメて、ツボにはまった箇所を抜き書きして1演目の完成。枝雀寄席が60席余りあったので、テープの整理がてら全て終了できたらえぇやろかい。の思いで「上方落語メモ」第1回目を投稿したのが1996年7月18日深夜のことでした。

文字を並べる作業を経験された方はお気付きでしょうけど、上方落語のように完璧にまとまった物語をダイジェストするって、想像以上に脳味噌のシワを必要とします。最初の10や20までは私のシワも耐えていたのですが「まだ残り40もある」と考えが及ぶと限界がやってきます。で、自分には結構甘い性格ですので、リミットを100行からニフティ会議室の制限300行にまで増やし、脳味噌への負担を軽減してやることにしました。

この変更は間違ってませんでしたね、脳味噌を使う作業から耳に頼る作業となり、耳のほうは慣れという人間の持つ特性でそんなに苦痛でもなく、明くる年の1997年3月23日「高倉狐」でめでたく50演目・第1集を終了することになります。

桂米朝師も
「習うより慣れろ」昔の人はホント核心を突いた理を残しています。耳の慣れとともに上方落語への慣れも進み、誰から習ったわけでもないのに落語的な言葉、文章にも慣れて、第1集・50演目を終了するころには第2集を続けようというスケベな気持ちが湧いていました。

続けるとなると必要なのが音源です。元々まっとうな計画を立てて始めた作業ではありませんし、お遊びのために音源を捜し求めるなんていう気もありませんので、枝雀寄席の残りにこれもテレビからの録画を撮りっぱなしの「特選!米朝落語全集」13巻・約50演目を加えることにし、とりあえず数量だけ確保して1997年4月6日「東の旅・発端」で第2集を始めます。

このころには、短くまとめて紹介するというコンセプトなんて失せてしまって、とにかく頭への負担を軽くし聞いたままを書き起こす。なおかつ、その作業も面倒になったら噺を端折って飛ばしてしまう。楽な方へ楽な方へと自分を導いて形だけ整えながら迎えたその年の暮れに、ニフティからインターネット個人ホームページスペース提供のアナウンスがあったのです。

第2集も残りあとわずか、完成すれば100話の節目にもなるし、この100ファイルをインターネットで公開してしまおう。またしても偶然の出来心、計画性のカケラなんてこれっぽっちもありません。思い立って本屋へ走り「ハイパーテキスト・マークアップランゲージ・ハンドブック」を購入、テキストファイルをそのまま活かせるように編集して1998年1月21日ウェブ版上方落語メモ【世紀末亭】がスタートします。

まだある
【世紀末亭】を開設して目に確かな変化が現れます。フォーラム会議室では、レスが付かない限りどれぐらいの方が読まれているのか分かりませんが、ウェブ版ではカウンターという訪問者数表示が出ます。これはかなり刺激になりました。

ちなみに手元にある資料では1998年4月240、5月278、6月354、7月340、8月300、9月631、10月525、11月676、12月632、1999年1月2968、2月998、1999年1月が飛び抜けているのは某ポータルサイトで紹介されたことによります。ごらんの通り月を追うごとに確実に訪問者が増えていく。

出来心でこしらえた形だけの内容に対して、わざわざ訪問して読んでくださる方がいる。それも毎月確実にその数が増えている。嬉しいやら、恥ずかしいやら、申し訳ないやら。【世紀末亭】は第3集目に入り、ちょっとばかり改心して、なるべく正確な内容を心がけ、話の端折りも避ける方向に転換していきます。

第3集を終える1999年3月までの延べ訪問者数8378名、3月の訪問者1227。第4集を続ける意思は決っていました。そしてそのためにセッセとラジオ・テレビ落語番組の録り貯めが始まります。始めてみると上方落語はまだまだありました。かの重要無形天然記念物・米朝師匠によればその数約300演目、道半ば、終わりはまだまだ遠いなぁ。

慣性の法則
高校の物理の時間に習った「慣性の法則」詳しい内容はすっかり忘れ去ってしまいましたが、物体に与えた運動エネルギーは保存され、それを吸い取る力、例えば摩擦などの抵抗が無い限り運動し続けるというヤツ。これは何事にも当てはまるようです。

私の場合「慣性の法則」というより「惰性の結果」と言った方が当たっている気もしますが、慣れというものは恐ろしいもので、第4、5集は特に書き記すことも思い浮かびません。すっかり生活に溶け込んだ習慣のように毎週1演目の追加で完了しました。

演目数は200を越えていますので、テレビ・ラジオ電波に乗る噺だけを拾い出していたのでは数が足らなくなります。そこで、第5集から未収録の演目をCD・カセットテープを購入して求めることになりました。

そのときはじめて知ったのですが、落語の音源って結構手に入りにくいんですね。さすが枝雀師匠、米朝師匠だけはどんな小さなCDショップに行っても置いてあったのが印象的です。放送では流せない艶笑ばなしの登場もこの集からです。

休もうとして休めない
上方では米朝師匠の言葉はまさしく神の言葉と等しいような扱いを受けます。って言い切っていいのかどうかは「?」ですけど、とにかく私にとっては神の言葉に等しかったのです。その米朝師匠が「現在演じられている上方落語は約三百ほど……」 第6集を終えるころにはその300演目を迎えます。

「これで一応完成させられる、大きな区切りを付けられそうだ」そう思うとなんだか寂しい気もしてきますね。新規ネタを探すのも難しい状況になっていましたので、新規追加と初期の頃の制限付き短縮版をフルバージョンに書き換える作業を交互にし、それまでの年間50演目ペースを25演目に減らして楽しみを先に伸ばすことにしました。

ところがこれが良かったのか悪かったのか、第6集終了を目前に未収録ネタが集まりはじめたのです。CDの購入、放送、常連の訪問者からの申告その他、その数10や20やありません。ひょっと、あと2年分ぐらいストックがあるのでは。

「米朝師匠、おかしいやないですか。確か三百ほどって……」ほどにもホドがある。ということで、2002年9月22日に笑福亭松鶴師匠の「相撲場風景」で第6集を終え、引き続き10月6日からは橘ノ円都師匠「ぞろぞろ」で第7集が始ってしまいました。

大区切りをつけて不完全な噺の書き直しに専念するつもりでしたが、それもままならぬ情況です。休む気は無いけれど、休もうとして休めない。さて、この楽しみがいつまで続くのやら。後ろからオイドを押し突っついてくださる訪問者の皆さまに涙ながらの感謝をして、再び書き起こし作業に戻らんとアップデートが間に合わん(2002年10月25日)。

(以降の推移は、このブログの頭から読んでもらえればお分かりいただけることでしょう。2007年4月22日現在、第9集・405演目)

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