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2006/06/18

桂福団治「ねずみ穴」

【世紀末亭】6月18日定期アップ

子どもが生まれてまず最初にしなければならない社会的作業が命名です。健康、叡智、富、その他もろもろ、精一杯の希望を込めて、我が子と他人を差別化するための符合を付けます。聴こえる音の響き、文字の意味するところを複合し、なおかつ姓名判断など使って検証し付けられたものが、わたしの名前であることを深く味わいましょう。ちなみに、2004年命名ランキングトップは男の子文字部門「蓮」読み部門「ゆうき」、女の子文字部門「さくら」読み部門「ももか」だったそうです。

流行りドラマの登場人物に誘発され数秒で付けられた名前であろうが、お爺ちゃんお婆ちゃん親類縁者巻き込んで長考の末に付けられた名前であろうが、一旦付けられた名前はそれ自身自己主張を始めるかもしれないことを知っておいても損はないでしょう。なんせ名前は生身の体と共に空間を移動しなくても伝わるし、時間・距離を超越するパワーを持っています。本体が死滅してのちもずっと生き残っていく可能性だってありますもん。

でも過ぎた心配は無用です、そんな力を秘めた名前ではありますけど、名前が一人歩きするにはそれなりの弾みで押し出してやる必要があります。多くの「あなた」や「わたし」の場合は名前に弾みを付けるほどの悪行も功績もないのが普通です。ですから「こうあれかし」との願いで付けれらた名前を道連れに、平穏な生活で日々を過ごすのが一般的なはずです。

スタートすると同時に「先付け」で名前をもらい、その名で物語を創り上げていくのが人名とすれば、落語の演題は「あと付け」と言えるでしょう。寄席で噺がダブらないように、楽屋帖にメモした略称がいつのまにか表に出て演題となったと聞いています。とりあえず楽屋内で噺が特定できれば問題なかったものが、その落ち噺が世間一般に広まり、略称を固有名詞として使うようになって「演題」となったのです。今でも「立ち切れ線香」「立ちきれ」「たちきれ」「立ち切り」と、演者のさまざまな思い入れで書き分けられるのがその名残です。

楽屋での略称から生まれたという経緯からか「下げが知れてしまう」とか「内容と対応しない」「安直である」など、聞き手から見ると不適当な演題も少なくありません。しかしながら、長い歴史を重ねて古典と呼ばれるようになった噺は内容も演題もほぼ固定され、演題は内容と一体となり命が吹きこまれ、それ自体に重みがあるようなのです。わたしなんか「たちきれ」「百年目」「らくだ」「地獄八景亡者戯」「菊江佛壇」の演題を聞くだけで、ちょっと身構える気持ちが起こってしまいます。

“My one and only love”“Sophisticated lady”“Body and soul”こちらは曲名を聞くだけでメロディが浮かぶジャズスタンダード曲ですが、これらを直訳すると「わたしの唯一の恋」「洗練された淑女」「身体と精神」となってどうもしっくりこない、やっぱり原題そのものが作品と一体になってます。

●桂福団治「ねずみ穴」
父親の死後、田畑を弟に譲って大阪に出た兄は成功し、南久太郎町で大店を営んでいた。弟は酒・博打で身を持ち崩し、働かせてくれと兄を訪ねるが「人の下で働くのはつまらないこと、この金で商売を始めろ」と渡された金を確かめるとたったの三文。「ちくしょ~、馬鹿にしやがって」悔しさが支えとなって、十年経った今では天満今井町に間口が六間半、蔵が三戸前(みとまえ)の質屋の主となり、恥辱の三文を返しに兄を訪ねる。が、三文渡して追い返したのは兄の高邁な計略だったと知れ、成功のねぎらいと祝いの宴でもてなされ兄の家に泊まったその夜、天満で火事が起こり駆けつけると、ネズミの穴から火が回った三戸前の蔵は焼け落ち、また無一文に。兄に再出発の元手を申し出るが……
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug395.htm

●桂南光「五貫裁き」
酒・博打に溺れ、大きな八百屋店を潰してしまった作次郎、今では居候同然に家主の世話になっている。心を入れ替えもう一度「八百善」を再建しようと家主に相談すると「町内を回り寄進を募って元手にしろ」と知恵を受ける。奉加帖を手に以前父親が融通した質屋「徳力屋」を訪ねるとビタ銭一文と嫌味で迎えられ、切れた作次郎は庭に銭を叩き付け殴りかかるが、逆にキセルで眉間を割られて帰って来た。考えを巡らせた家主は奉行所に訴え出て、裁きを付けてもらうよう進言する。やがて裁きの日「天下通用のお宝を投げつけた罪により、銭五貫文の科料を申し付ける」意外な結末に慌てる作次郎だったが、もっと意外だったのがその罰金の納付方法だった……
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug147.htm

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2006/06/04

笑福亭生喬「野ざらし」

【世紀末亭】6月4日定期アップ

鉄道模型を製作するとき、模型そのものを作品ととらえ、忠実に細部まで表現し塗装も美しく仕上げる「工芸品的模型」と、鉄道が走る風景(シーナリー、レイアウト)を演出する舞台装置の一部ととらえ、リアルなウェザリング塗装(汚れ)を施して現実感を出す「状況的模型」。大きく分けるとこの2つのカテゴリーに分類できます。

わたしが好むのは模型然としたピカピカの置物ではなくて、風雪に耐えて働いてきた疲労感のある模型ですが、実はこれピカピカに仕上げるより数段手間ひま、技術、観察力が必要なのです。「汚れは単に汚れているのではなく、汚れる理由があって汚れている」と言えばお分かりでしょうか。理にかなった汚れは現実感を増しますが、かなわない汚れは非現実感をともないます。

子どもの頃、新しいスニーカーを買ってもらうと、うれしい反面下ろし立てのあの真っ白ピカピカに気恥ずかしさを覚える、ちょっとひねくれた感覚の持ち主でした。で、自ら泥砂を擦り付けて汚してしまったりします。ところが自然に汚れるのと違って、明らかに「汚した」跡が気になって、逆に気分が凹んでしまうというのが常でしたけど。

新品のジーンズを屋根の上に放置して天日に晒し色落ちさせる、というのも同列の発想だったのでしょう。服飾メーカーではここに目を付け、ストーンウォッシュとかブリーチとか慣れを付けて古着の風合いを出した製品を売り出し、いまや擦り切れ穴が開き、裂けて肌もろ出しの新品ジーンズが店頭に並んでたりします。

このエイジング・ファッションの流行、わたし大いに喜んでおります。ちょっと前なら擦り切れて穴の開いたジーンズは、月2回資源ゴミの燃えるゴミに分別して捨てる以外手がなかったのに、多少の穴なら気にせず穿いていられるようになりました、皆で穿けば恐くないですから。ただ根性が座ってないので、家の中と周辺数メートル以内に限られるのが年の功というものです。

とは言えですね、すべての穴に納得しているかといえば「穿きつぶしの穴は単に開いてるのではなくて、穴が開く理由があって開いている」。穴の開く理を超えて開けられた穴は気になって気になって、街中で見かけると「指突っ込んで裂いたろか」と不埒な思いに駆り立てられてしまう今日この頃なのです。

●笑福亭生喬「野ざらし」(江戸落語移植版、上方落語「骨つり」に相当)
夜更け、隣りの堅物先生の睦事を壁の穴から覗き見した喜ぃさんは、夜が明けるとさっそく問いただしに行き、事の顛末を聞き出す。なんでも、大川で釣りをしていたら河原で亡骸を発見し、手持ちの酒で回向すると夜になって幽霊が訪れ、お礼代わりにいろいろ世話をしてくれたという。「あんな綺麗な幽霊なら俺もあやかりたいもの」とばかり、竿を借りて大川に出かけて行くが……
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug394.htm

●桂雀三郎「いらち俥」
急ぎの所要のため大阪のステンショまで行こうと俥を探すがなかなか見つからない。やっと見付けた俥屋は梶棒を離すと立つこともできない退院したばかりの半病人で、次々と仲間の俥に抜かされまったく前へ進まなかった。見切りを付け別の俥を探すと、若くて俊足、威勢のいい、人呼んで「韋駄天の寅」が見付かりさっそく乗り込んだ。「北へ行ってくれ」の声で走り出した俥は言葉どおり速いには速かったが……
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug146.htm

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